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フラメンコのトリビア◇お囃子・掛け声

【フラメンコの歴史】

フラメンコの歴史は色々な説がありますが、ここでは比較的有力な説を取り上げたいと思います。

まず、フラメンコの成立に深く関わったヒターノ(スペイン・ジプシーのこと。以下、ヒターノとします)達。彼ら自身はロマ族を現在では名乗ります。

ヒターノもジプシーもエジプトから来た人を意味していますが、現在までの研究で、彼らの故地はパキスタンとの国境地帯にあるインド北西部のラジャスタン地方であることが分かっています。そのため、彼らがロマ族を名乗るに際して旗を決めたのですが、インド国旗と同じデザインで、中央に彼らの出自を示すアショーカ・チャクラ、下半分は緑、上半分は青に染められています。

これはインドを出て緑の大地と青い空が続くところ、旅を続けている彼らの生き方を表すそうです。

インドを離れた理由は不明ですが、600~700年をかけてようやくスペイン(アンダルシア地方)に到着したのは15~16世紀ごろ。

当時のスペインはイスラム教徒から国土を奪還するレコンキスタの最終段階から完成の時期。

イスラム教徒やユダヤ教徒を追放した後、人口減に悩むスペインはフェリペ2世のときに「ヒターノ永住作戦」ともいうべき政策をとります。

つまり、放浪の民ヒターノを強制的にセビージャのトゥリアナやグラナダのサクロモンテに定住させたわけです。

この2つの場所は現代では、「フラメンコのゆりかご」と言われているフラメンコの発生と発展の上でとても重要な場所。

つまり、スペイン王室の肝いりでフラメンコの種がまかれたわけです(まったく意図せずに、だろうけれど)。

とはいえ、この段階ではフラメンコはまだ生まれていません。ここからフラメンコの発生まで約300年くらい待たねばなりません。

そう。気づかれたと思いますが、フラメンコは生まれて200年くらいの比較的若い伝統芸能なのです。

さて、ヒターノがスペインに強制的ではあっても定住を始めた時代は、レコンキスタ(キリスト教徒による国土再征服運動)が完成した時代でもありました。なにしろ、後ウマイヤ朝というイスラム帝国によってイベリア半島のほぼ全域が征服されて数百年(特にフラメンコの故郷アンダルシアでは700年以上)がたっています。

当然ながら、イスラム教徒(そして、イスラム王家に仕えたユダヤ人)にとっても大切な故郷であるスペイン・アンダルシア地方。追放されたからといって、「はい、そうですか」と国外退去するわけにはいきません。そこで、アンダルシアに残りたかったグループが、自分たちと肌の色合いも容姿もなんとなく似ているヒターノたちの居住区に潜り込むことになります。

インドの故郷でも芸人をしていたらしいヒターノ達は、スペインでも同じようなことをしていたらしく、当時のアンダルシアにあった音楽芸能や舞踊(この芸能にはイスラム由来のものやユダヤ由来のものも含みます)を吸収し、彼らなりのテイストで再創造し始めます。

ここにフラメンコのひな型がようやく生まれることになるわけです。ヒターノはフラメンコの成立には深くかかわっていますが、そのヒターノが元々持っていたものではないと言われる理由はここですね。

はじめは彼らのコミュニティーで、仲間同士で歌われるものでした。

悲しみ、怒り、苦しみを込めた深い表現が最高のものとされいましたが、次第に人前で演じられるようになり、19世紀ごろになるとカフェ・カンタンテという表現の場を得るにいたり、音楽芸能として発展していきます。

現代フラメンコは、フラメンコギタリストであるパコ・デ・ルシアと、フラメンコ歌手であるカマロン・デ・ラ・イスラという二人の天才と言われるアーティストがジャズや他の音楽要素を取り入れて、新しい表現を生み出し発展させたことでさらに魅力的な音楽芸能へと進化したといえるでしょう。

​そして、現在のフラメンコはスペイン本国だけでなく、日本、アメリカ、カナダ、ロシア、南米、韓国など広く世界で愛好されています。

​これはスペインの他の民族芸能にはない特徴と言えるでしょう。

​ロマ族の旗(彼らの故地インドにちなむ)
中高年と初心者の岐阜フラメンコ教室ダンサフラメンカ
スペイン最後のイスラム王家の城(アルハンブラ)
中高年と初心者の岐阜フラメンコ教室ダンサフラメンカ
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​闘牛もアラビアからもたらせた
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